29/07/2026
「家族を大切にする」ということ
「家族を大切にしていますか」と尋ねられれば、多くの人が「もちろんです」と答えるでしょう。しかし、その「大切にする」という言葉の意味は、世代とともに変化してきたように感じます。
昭和の時代、「家族のために自分を犠牲にする」「家族を守るためなら無理は仕方がない」という価値観を多くの方が持っていました。高度経済成長を支えた世代は、家族を養うため懸命に働き、ときには自分の健康や時間を顧みないこともありました。決断を迫られる場面では「情」や「義理」が重視され、家庭内のケアの多くは嫁が担い、それでも困ったときには地域で支え合うことが当たり前でした。
平成になり、社会は少しずつ変わり始めます。介護の社会化を目指し介護保険制度が発足しました。医療の現場でも「本人の意思」や「自己決定」が尊重されるようになった一方で、家族は「本当にこれで良かったのだろうか」と悩みながら決断する場面が増えました。家族を大切に思う気持ちは変わらなくても、「医師にお任せ」から「正しい選択をしなければならない」という思い、責任感が強くなっていった時代だったように思います。
令和の現代、その変化がさらに加速しています。コンプライアンス、人権、多様性がさらに重視され、医療者も「情」や「義理」よりも、「ルールの遵守」「公平性」「説明」が患者の権利とともに確立しました。家族もネットやSNSで多くの情報を得て、医療者とほぼ対等に話し合える時代になりました。
こうして振り返ると、「家族を大切にする」という思いそのものは、昭和も平成も令和も変わっていないのかもしれません。変わったのは、その「表現の仕方」なのだと感じます。
そして、人生の最終章の場面では家族が決断を迫られます。「少しでも長く生きてほしい」「苦しませたくない」「本人はどう思っているのだろう」そのどれもが、家族を大切に思うからこそ出てくる言葉です。しかし時に家族は、「本人の希望」よりも「自分たちが後悔しない選択」を優先してしまうことがあります。もちろん、そのような状況で冷静でいられるはずもなく、それは決して責められることではありません。しかし、家族との対話の中で導きだされるのは、本人が不在の「家族が後悔しない選択」が増えてきたと感じるのは、私だけでしょうか。
ACP(人生会議)では、元気なうちから「どんな暮らしを続けたいか」「何を一番大切にして生きてきたか」「もし病気になったらどんな医療・ケアを望むか」を家族で話し合い、人生の最終章を迎えた場面で、本人の言葉や思いを皆で振り返るのです。しかし、現代の家族と向き合っていると、どこか引っかかりを覚えるのです。「認知症、ひとり暮らしは家では無理」「介護が必要になったら施設が安心」といった意見、そして医療者は家族に「決めてください」と迫る。このような「本人の感情や気持ち」よりも、それぞれの人にとっての「正しさ」が優先される場面に出会うたび、対話が滑って本質の部分に届いていないのではないか、と思う感覚があるのです。つまり、全員がそれぞれの「正しさ」を完璧に遂行しようとすればするほど、対話は形式化し、ACP(人生会議)という仕組みが「入院のために必要な手続き」や「サインすれば施設に預かってもらえる書類」として処理されている現実があるように思います。
今後、この「大切にすべき価値観」はどこへ向かうのでしょうか。私自身、親を介護する者として、将来、自分自身も介護が必要になりうる身として、「本人の気持ち」が取り残されていく時代の変化に不安を覚えるのは、私の杞憂なのでしょうか。
永源寺診療所 花戸貴司