04/09/2026
怒ってもよかった
隆には、昔から、腹が立つとまず顎に力が入る癖があった。
奥歯を軽く噛みしめる。頬のあたりが硬くなる。それから、その硬さごと、何もなかったことにする。
弟のことを考えるときは、たいていそうだった。
母の介護の手続きも、実家の名義変更も、結局は隆がやった。弟は遠くに住んでいて、電話一本で「兄さんに任せるよ」と言う。それで済んでしまう。
腹が立たないわけではなかった。
けれど、腹を立てたところで何も変わらない。弟にも弟の生活がある。母だって、二人が揉めるのを見たくないだろう。そう考えると、腹立ちは、いつのまにか別のものに置き換わっていた。
「自分がしっかりしていれば、それでいい」
そう思うことにしていた。実際、そう思っているつもりだった。
ヨガを始めたのは、去年、歯医者で「歯ぎしりがひどいですね」と言われたのがきっかけだった。
その日のレッスンでは、うつ伏せになり、両手を肩の下について、上体をゆっくり起こすところから始まった。
「肩を、耳から遠ざけてください」
久美子先生が言う。
隆は肩を下げようとした。けれど、下げようとするたびに、顎が前に出た。
「顎は、まだ働かなくて大丈夫ですよ」
言われて、初めて自分の顎に力が入っていることに気づいた。
もう一度やってみる。今度は、顎の力を抜こうとした。
すると、代わりに肩が上がった。
「そこじゃなくてもいいんです」
久美子先生は、隆の肩甲骨のあたりに軽く手を添えた。
「ここから、少しだけ、背中を使ってみましょう」
隆は、肩でも顎でもなく、背中の中ほどを探した。
慣れない場所だった。力の入れ方がよく分からない。
それでも、しばらく探していると、背中の奥の方が、ほんの少し持ち上がった。
同時に、顎の力がふっと抜けた。
隆は、そのまま止まった。
「今、何かありますか」
「……顎が、楽になりました」
「そうですか」
久美子先生は、それ以上何も言わなかった。
*
次は、椅子に座り、片方の腕を大きく回すポーズだった。
「腕を後ろへ回すとき、胸から開いてみてください」
隆は腕を回した。肩の関節が動くのは分かる。けれど、胸のあたりは、動いているのかどうか分からなかった。
「無理に開かなくていいので、開かない場所があることに、気づくだけでいいです」
隆は腕を止めた。
胸の真ん中、少し下。そこに、何かが硬く畳まれているような感じがあった。
言葉にはならなかった。ただ、そこだけ、呼吸が入っていかない。
久美子先生は、何も聞かなかった。隆も、何も言わなかった。
*
レッスンの終わり、仰向けになって目を閉じた。
呼吸をしていると、さっきの胸の硬さのことを、また思い出した。
弟のことが浮かんだ。
小さいころ、何かがあると、母はいつも弟の言い分を先に聞いた。「隆はお兄ちゃんだから」と言われるたびに、隆は自分の言い分を飲み込んだ。
大人になっても、それは続いた。
譲るのが当然だと思っていた。譲ることが、自分の役目だと思っていた。
けれど、目を閉じたまま、隆はふと思った。
──本当は、ずっと腹が立っていたのかもしれない。
その考えは、すぐには受け入れられなかった。
腹を立てるようなことじゃない。弟にも事情がある。母だって年だ。
いつもの言葉が、いくつも浮かんだ。
それでも、胸の硬さは、そこにあった。
隆は、その硬さに向かって、初めて別の言葉をかけてみた。
「腹が立ってもよかったのかもしれない」
誰かに言うでもなく、ただそう思っただけだった。
すると、胸の奥で、何かがわずかに緩んだ。
大きな変化ではなかった。息が、少し深く入っただけだった。
*
レッスンのあと、久美子先生が聞いた。
「今日は、どこか変わりましたか」
隆は少し考えて、
「胸のあたりが、少し楽になりました」
と答えた。
「そうですか」
それだけだった。
*
その週末、弟から電話があった。
「実家の件、また兄さんに任せていいかな」
いつもなら、隆はすぐに「いいよ」と言っていた。
その日は、少しだけ間があった。
「今回は、お前も一緒にやってくれないか」
言ってから、隆は自分の声が、思っていたより硬くないことに気づいた。
弟は、少し黙った。
「……分かった。今度、そっちに行くよ」
電話を切ったあと、隆は自分の肩を触ってみた。
いつもより、下がっていた。
顎にも、力が入っていなかった。
*
次の週、隆はまた教室へ行った。
同じように肩甲骨から背中を使い、同じように腕を回した。
胸のあたりの硬さは、まだ少し残っていた。
それでも前より、そこに呼吸が入るようになっていた。
隆は、その硬さを直そうとはしなかった。
ただ、そこにあることを、今は知っている。
腹が立つことを、なかったことにしなくてもいい。
そう思えるだけで、肩の重さが、少し違っていた。