堤ヶ岡メンタルクリニック

堤ヶ岡メンタルクリニック 心理療法に力を入れている精神科クリニックです。精神科医・公認心理師の立場からあなたのお悩みに見通しをつけるお手伝いをいたします。ちゃんとやめていける安全な薬物療法を心がけています。

 当院は完全予約制の精神科、心療内科のクリニックです。完全予約制としましたのは患者さんの一人一人と落ち着いて話し合いを持ちたいからです。
 薬物療法の進歩で急性期の精神科疾患は非常に治りやすくなっています。しかし維持期や再発防止のことを考えると薬物療法だけでは心もとないです。そこで何らかの精神療法との併用が必要です。とくにうつ病をについては安定期の認知行動療法が再発防止に効果があることがわかっています。私は精神療法のエッセンスはアドヒアランス(患者さんが治療に参加していること)の維持にあると考えています。それには患者さんと時間と場所を決めて定期的にどっしりとあっていくことがどうしても必要だと考えるようになりました。完全予約制ということでご迷惑をおかけすることもあると思いますが、以上の理由がありますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
 もちろん通院されている方の予約外の診療には対応いたしますが、電話連絡をしていただきたいのとある程度待っていただくことはご容赦ください。

25/05/2026

<第二回臨床研究会>第二回の臨床研究会が開かれれました。今回はあたらしい先生が参加されました。メンバーとしてはS先生は神経症治療に熱心な方、クリニック医師。私、神経症治療が多いけども内因も含めあまり制限はしていない、クリニック医師。若い先生、精神科病院で働いているけども所属は行政という方。の三名になります。S先生は神経症(私の記事ではたびたび心因という言葉を使っています)との関わり、治療に情熱を燃やしています。心因は患者さんと環境の課題の解決を目指すので本筋的には薬物療法は必要ありません。というわけでS先生は薬を出さない精神科医ということやっております。なかなか信念を持って取り組んでらっしゃると思います。私もS先生も共通しているのは個人の患者さんと治療契約をして診療が始まるという点です。一方、今回来てくれたT先生は公衆衛生とか行政の立場で仕事をされている方です。具体的には精神科医療につながっていない方を保健師さんらと連携して医療につなげるとか家族教育、家族教室や講演会の企画等が挙げられます。精神科医療もいろいろな側面があります。T先生は普段わたしやS先生に馴染みのない領域からケースを持ってきていただき、大変参考になりました。臨床研究会第二回目です。小人数での事例検討会ということですが、今はまだ三人です。S先生は最大六人ぐらいにしたいねと言っていたので、現在参加者募集中です。参加条件は守秘義務とか基本的なところが理解してもらえれば、「自分の事例が出せること」です。興味のある方はクリニックへご連絡ください。今回は以上です。

13/05/2026

<診療報酬改定>6月の診療報酬改定にむけて準備に忙しい毎日です。診療報酬改定には政府の意向が反映されています。全体的には医療DXと賃金のベースアップに注力していくということだと思います。精神科での流れは初診の60分と30分以上の診療を評価してゆく方向のようです。当院では30分以上の診療の割合が全体の13%ぐらいありました。数字を出してみると思った以上に多くて意外でした。どうして数字を出したかと言うと早期診療体制充実加算をとるための施設基準を申請するために必要だったからです。もともと当院は地域における精神科医療の窓口的な役割を目指していています。急性期や内因の精神科の疾患のケースは必要なら精神科病院につなげる。反対に心因性のものについてはじっくり向き合う枠を提供できる診療をおこなうということを目指しています。精神科病院との連携は当然今までもやってきました。今回の診療報酬改定で示されたのは緊密な連携をさせていきたいという方向性だとおもいます。この方向性は当院の目標ともあっているので、ぜひとも乗っかっていこうと思います。
<診療時間の長さを評価する方向について>当院は当初より10分は診療時間を保証しています。加えて継続的な心理療法をのぞまれる方対象に30分の枠で時間を取っています。長いことこのスタイルでやっているので大きく変える気はないのですが、政府の意向としては心理療法を多くやってほしいということでしょうか。当院で30分の枠を提供する場合は、自由画、コラム表、夢の分析が大部分になります。これらの心理療法を継続するには患者さんの明確なモチベーションがないと成り立たちません。現在私の地域ではしっかり心理療法をしたいというニーズに十分な枠が提供できていないので、当院がそれを提供しようと思っているわけで、実際に該当する絶対数は多くはありません。そういうわけですのでそこまで30分以上の診療にニーズはないと思います。一方で初診の60分というのは大いに取り入れていこうと思います。実際としては60分の時間を確保するのは大変なのですが、初診に時間をかけるのは無駄にならないという格言もありますので素直に使わせていただこうと思います。私は現在、30分ぐらいで初診を取っていますが、30分に収めていくためにガッツリ削ったのは「生活歴」の聴取でした。初診の問診で生活歴を聞くというのは精神科の面接の一番の特徴でしょう。またトレーニングとしてもとても重要です。生活歴はどの方にも同じやり方で同じ順番で聞いていく、いわゆるルーティンというやつなのですが、いつも同じことを聞くからこそケースの特徴に気づきやすいという面があります。心因ではクライアントのテーマは繰り返すところがありますから、その視点で見るとクライアントの心理的なテーマが予想できたりします。優れた診断面接では治療面接がはじまっているというような話もあったと思います。基本であることはわかっていたのですが、忙しさを言い訳にスタイルを変えてしまっていました。大いに反省して、6月からは政府の後押しもありますので初心に帰って(初診だけに?)生活歴もしっかり聞き取ろうと思います。今回は6月の診療報酬改定で私の診療がどう変わるのかという話でした。以上です。

01/05/2026

<父親イメージの役割>
子育てや家族についての相談を受けている時、「これは自分にとっても宿題だなぁ」と感じることがよくあります。こちらからアイデアを出すことはもちろんですが、クライアントさんからアイデアをもらうこともあります。とにかくいつも考えているのでたまに子どもに聞いてみたりもします。私「お父さんとお母さんのちがいってなにがちがう?」子「おまたに。。。。。。があるのが、お父さん」私「笑」ただしこれっておふざけにとどまらない本質をついているようにも思います。というわけで今回は父親イメージの役割について、考えてみたいと思います。
 はじめにタイトルを父親イメージの役割として、どうして父親の役割としなかったかについて説明したいと思います。ユング心理学では父親の中には父性がもちろんありますが、母親の中にも父性があると考えます。男の人、ある個人の中に男性イメージと女性イメージがあるそういう風に考えます。ですからある個人の人の行動や性格を考える時、ここは男性的、人とのつながり方は女性的というように心のなかにはいろいろな人物像がある(役割分担をしている)と考えます。そういうわけですのでイメージといったほうが本稿の趣旨に合うわけです。父親の役割といってしまうと、うちは母子家庭だから役割がぬけてしまうと言うような誤解が生じる危険があるわけです。私は間違いなく父親ですが、子どもと関わる時、父親イメージを介して関わると同時に母親イメージを介して関わっているわけです。父母だけでなく、友人や兄貴イメージ、子どもイメージを介して関わっていることもありえると思います。(拙稿「悪ふざけはたのしい」をご覧ください)その全部を使って子どもにあったっているので、それが「私」が子どもと関わるということなのです。本稿はたくさんの要素の中の一つ、父親イメージに対して理解を深めようというわけなのです。
<父親イメージ一般について>はじめに教科書にのっているような知識です。これは男性性ということとだいぶ被りますが、決めたことをやり通すというある種の頑固さや家族、人々を引っ張っていくリーダーシップがあります。また仕事に行く人というイメージがありますから、社会適応にも関連します。父親が仕事の向かう姿はそれだけで子どもたちにこれから参加していくことになる社会との付き合い方を伝えているわけです。父親との遊びにも特徴があります。父親との遊びはそうでないものと比べて激しいものになりやすいという特徴があります。相撲やレスリング、チャンバラこれらは戦いの興奮があり、子どもたちは(時に親も)熱狂します。この時やはり超えてはならない一線というのがあり、それが超えられたときに怪我や父親からの(性格には父親イメージからの)予想しない怒りに当てられることが起こります。この超えてはならない一線を超えずに遊びの状態を維持する能力というのが社会スキルとして非常に重要になります。このセンスを父親との激しい遊びを通して、子どもは学んでいるのです。
<大学生の父親イメージ>もう十年以上前のことになりますが、あるケースの理解のために大学生(日本人)の父親イメージについて調べてみたことがありました。ある調査において、大学生の父親イメージでは「めだたないけど、影から見守ってくれている」というものがメジャーになっていました。私は「ほぼ霊。ご先祖様じゃん!」とツッコミを入れたくなったことを覚えています。先に述べた教科書的な父親イメージと比べるとリーダーシップなどはずいぶん方向性が違って見えます。ここで架空ですが、ケースを想像してみます。奥さんあたりに「あなたは何もしてくれてない」なんていわれる。そんな言葉を真に受けると世のお父さんは途端に焦りだし、家事や育児に積極的に参加するようになるかもしれません。それもよいでしょう。否定はしません。しかし私なぞは「霊になにかさせようというのがいかん。全力で守護霊をやっとるのだ」と答えるのもありと思います。守護霊に抵抗あれば大黒柱という丁度良いイメージもあります。ふらふら揺れるのはいい柱ではありません。これらも父親イメージと言えるでしょう。
<英雄の父親は二人いる>ユング心理学では神話の研究をやります。その中で英雄神話では自我の成長のヒントが有るとしてよく解釈、研究がされます。自我というと聞き慣れないですが、わかりやすくいうと子どもの心の成長と考えてもらって構いません。この英雄の出自に関して、父親が二人いるという設定が多いのです。このペアの父親像ですが片方は神様とか超自然的な存在です。もう片方はふつうの人間の男性です。このことは何を意味しているかというお話です。私の家では、母親が子どもに何かあった時に「パパに報告するよ!」ということがあります。すると子どもはそれだけはやめてという風に両手を挙げて降参となります。奥さんは「うちの子たちはパパを恐れているから・・」というようなことをタレコミを入れてきます。ですが私には恐れられる心当たりがないのです。取り立てて大きな声を上げることもないし、気難しい性分でもありません。子どもたちは私の背後の父親イメージにおそれを感じているのです。この現象は子どもたちがなにかルールを破ったときにみられることが多いです。ルールを破った罪悪感、または正義感の萌芽(の自覚)、精神分析の言葉を借りれば、「超自我」に出会う体験です。イメージで言えば閻魔大王でしょうか。裁く者。こういう超自然的な父親イメージをただの一般人に過ぎない私が背負う場面というのが父親をやっているとやってくるのです。ここで「裁く者」父親イメージが実際の父親に一体化するようなことがあると理屈はあるにしても現実的でない罰が子どもたちに加えれる事が起こります。不幸な結果になると思います。「超自我」自体は社会からの要請を代表しているので、超自我と折り合いをつけることは社会に出ていくポジティブな力になります。とはいっても超自我や超自然的な父親イメージの要求する正義感は融通が効かないものなので、「それは正しいけども、俺自身もまもれないよな」という生きた一般の人間の視点が重要になります。子供へアイスは夕ご飯が食べられなくなるからだめだと、ルールを語り、例外は許さないといった父親が風呂上がりに隠れてアイスたべてるというような二重性が子育てにおいてはむしろ重要と考えています。私が子どもたちに「パパが言うことは正しいけども、パパが正しいんだと勘違いしてはいけないよ」とよく言うのはこういうわけなのです。超自然的な父親とそれから比べれば矮小な父親、英雄が成長するには二組の父親が必要なのです。今回はいろいろな父親イメージについて取り上げてみました。何かの参考になれば幸いです。以上になります。

28/04/2026

<労働とボランティアと仕事>
 患者さんと話しているとそれぞれの人が自分のテーマに沿って心理的な仕事をしていることに気が付きます。これを社会の中の仕事と区別して、オプスと仮に名付けます。患者さんに説明するときは「課題」と言ったりもします。患者さんとの対話はカルテに残しています。そういう記録を俯瞰してみるとオプスが浮かび上がってきます。オプスはもちろん患者さん個人の課題なのですが一般にも広く言えることが多く、実際私の人生においても役立ちます。精神科医の役得です。今回はその中の一つのお話です。
 ある人は仕事人生と個人の人生のバランスをどう見出すのかというのがオプスとなっているようでした。話し合いの中で会社のベースになっている仕事観とその人の仕事観にズレが有るという話になりました。西洋、もしくはキリスト教圏の社会では労働というのは自分の時間を捧げて(苦役)それの対価にお金を得るという明確なモデルがあります。明確ですがそれだけでは、人間にとっての仕事は語り尽くせません。なのでもう一つの様式としてボランティアが普及しています。キリスト教社会では労働とボランティアをわけてそれぞれ行うというのが文化ですが、日本ではもともと「仕事」といったときに西洋式で言えば労働とボランティアが混ざって入っているものを指すように思うのです。それでていて会社はもともとの日本式を離れ、西洋式を取り入れていきますので「労働の場」の色彩が濃くなっていきます。実際の構成員の日本人の意識は従来の「仕事」のままの方が依然として多い。。。このような仕組みで同じ「仕事」という言葉をつかいながら会社は労働の意味、日本人の会社員は労働とボランティアの混ざったものをイメージとしてもっているため、双方の食い違いが問題の本質のように思われます。例を挙げれば、(雇われ側からの視点ですが、)本来ボランティアというのは人間的な交互作用を期待するものですから、会社からはそういう照り返しを感じない。ボランティアすればするだけ吸い込まれるというような徒労感を感じるかもしれません。(サービス残業という言葉は外国にもあるのでしょうか?)こういったケースではクライアントの会社への期待が現実的なのかと言う事の見直しや今回の方のように仕事人生と個人の人生のバランスを見直していくようなセッションになっていくかと思います。個人としてはこういったセッションになりますが、日本人全体としても社畜(苦役)という言葉が出てきたりしていますので日本人の仕事イメージも仕事=労働というように西洋風に変化が生じていると思います。今丁度過渡期なのだと思います。昔、何かの論評で日本人はボランティアがすくない(けしからん)みたいな論がありましたが、それはそもそも仕事にボランティアが含まれていたわけであって、それが昨今変化していますから、日本人のボランティア率というのも西欧並には上がってくるのではないでしょうか。外来でもボランティア活動している人が割とおりますし、世界陸上でのボランティアの質が非常に評判がよかったという話も聞いています。精神科の仕事はもちろん個人を相手にしていますが、社会の動き、傾向というのも非常に影響をされるので大事になります。今日は西洋社会の「仕事」と日本人の「仕事」のイメージがズレていること、会社から個人の順番に西欧風に変わってきていること、その変化の過渡期をどう生きるかというオプスに割とで診療の中で出会うことをお伝えしました。本日は以上です。

04/04/2026

<反省には2つの過程がある>
あるベテランセラピストはよく「心理療法はリフレクションが起こらないとうんぬん。。」といっています。実際リフレクションは最重要といっていいと思いますが、じゃあリフレクションって何?ということになるとユング心理学では「鏡イメージ」などイメージをつかって説明、理解に近づいていこうという傾向が多いです。ですが今回はあえて言葉からの説明、私の考えを説明したいと思います。レフレクションはrelectionで単純に訳すと「反省」となりますが日本語で反省というと良い、悪いとか罪悪感、いわゆる「謝罪」に引っ張られてしまうケースが多いように感じます。わたしはよく患者さんに良い悪いを聞いているわけではありませんよとよくいっていますが、反省という言葉を巡って私の目指す方向(心理療法の方向)と患者さんの考える方向(謝罪方向)にズレが生じているのです。もちろん人間関係においては謝罪は大事なのですが、罪悪感と強いインパクトで行動を変えていこうというのは心理療法において、(教育においても)あまり有効とは言えないのです。心理療法にあたってまたはセルフ心理療法において反省を行うときにはまず第一として「良い、悪い」「罪悪感」は横においておくというのが大前提になると思います。そのうえでまず①出来事、②その出来事をどうとらえたか、③自分の行動、気持ちの3つわけて考えます。どうして3つなのかということですが、実際に心理療法を受けている人は気がつくと思います。セラピストにあることを話したいとおもうとき、結果的にこの3つを話すことになるからです。もしくは①と③の2つを話す人もおられます。その場合でも意識のスポットライトの当たらない②が必ず存在しています。複雑な状況や心情に感じられてもこの3つ組が最小単位なのです。以上をふまえて、今回のタイトル「2つの反省がある」にもどります。まず1つ目は③につながる②を振り返るです。③というのは行動や気持ちです。気持ちの方の例を挙げれば「怒り」や「悲しさ」といったものです。実際に身体的な体験のあるものです。①出来事を②どういうふうにとらえたから③結果が出たのかということを振り返ります。これが1つ目の反省です。この段階では①はさほど考えに入れません。それよりはむしろ③の(感情)体験にピッタリの「とらえかた」を言葉にする、拾い上げる、釣り上げるといった事に集中してもらうことにします。③につながる②をしっかりとまな板の上においたら、(紙に書き落とすことを勧めます)①出来事に②の内容がマッチしているかどうかを考えます。これが2つ目の反省です。この2つ目の反省ができるようになったらセラピストとしてはこれ以上指導するようなことはなく、クライアントの作業を見守る段階になったといえるとおもいます。したがってセルフ心理療法としてはほぼ到達点ではないでしょうか。今回は心理療法での反省、リフレクションについて取り上げました。以上です。  追記:念のためグーグルでrelectionを調べたところ反省ではなく、内省となっていました。そこだけ修正しておきます。

23/03/2026

<老年期の診療にあって・・>
精神科の診療の中にあって年配のかたに関わる割合が増えています。認知症などはその代表ですし、老人性精神病、老年期のうつ病に出会うことも増えてきました。老年期自体もながくなっています。施設への訪問診の機会もあって経験が積み重なってきました。老年期の実態が像を結んでくるにつれて、「私の老年期は?」という問いが無視できなくなってきました。いつまで「自分」があるのだろうとか、どこに住むのだろうとか、考え始めると底しれない見通しの立たなさを感じます。医療という外からの観察や知識ではない「私の老年期の理解」のニーズが高まりました。タイミングが良いことにそんなときに「ミセスタッカーと小人ニムビン」という本に出会いました。今回はこの本の紹介と考えを進めたいと思います。
 この物語はミセスタッカーが「夕日ヶ丘ホーム」という新築の老人ホームに入所するところから始まります。まずこの点から大きな気づき隠れています。我々が診療の中でケースに関わるとき、患者さんが施設に入所すると、ひと仕事おわったとおもうわけです。「さしたる怪我もなく安全な環境にうつってもらうことができた。」と考えるわけです。ですが物語は入所から始まります。ミセスタッカーはあたたかいホームからの脱走を計画します。ミセスタッカーは老人たちの英雄ですから緻密な計画を立て見事、荒野の「開拓小屋」で新しい暮らしを試みます。開拓小屋の話は後で取り上げますが、その前に訪問診をしているとミセスタッカーをはじめ、少なくない老人たちがあたたかいホームからの脱出を試みていることに気が付きます。「帰宅願望」という形で我々のところに相談が寄せられます。この脱出の動機はミセスタッカーによれば「自分を子ども扱いして、何にもできないだろうとおせっかいの押しつけはたえられない」とのことです。もちろんミセスタッカーの意見が全てではないにしろ、私には新しい視点でした。つまり我々を子どもあつかいするなとか、まだまだできることがあるという頑固な思いがあるわけです。ミセスタッカーは実際にやり遂げるわけですが、認知症の方を考える場合にも当てはまるように思います。ここでは実際に能力があるかは別問題で、こういう頑固な思いがあるということを想定していたほうがいいということです。ここであるケースを思い出します。その方は施設内の問題児で、私も訪問診で関わっていた方なのですが、その方が大豆と小豆が混ざっているものを分けるという作業に関わるようになったら非常に落ち着いたというケースでした。その方がわけた豆の入ったお椀はバックヤードに運ばれ、そこで再び混ぜられ、その方に「これもお願いしますね」と渡されます。内情までしると賛否あるとおもいますが、少なくともその方にとって内面の安定をもたらしたのでした。実際、施設に住み込みで奉公に来ていると考える認知症の方は多いのです。まだ役に立つ側だという認識が欲しいのです。また関連して思い出すのが、子どもたちには迷惑かけたくないという老人たちの訴えです。これも私は素直に遠慮しているとか忖度しているととらえていたので「迷惑ではないですよ」とか「関われるほうが安心なんですよ」というふうに子どもたちの視点の代弁する声かけをしていたのですが、老人たちの頑固な抵抗にあうことが多かったのです。ミセスタッカーによれば、これは「まだまだやれますわい」という思いのがあるようなので、それを踏まえるとこの頑固な抵抗への理解が深まる気がします。
 話をミセスタッカーの方に戻しますと、ミセスタッカーはあたたかいホームから脱出し「開拓小屋」で暮らすことになります。開拓小屋は雄大で豊かな自然の中にありますが、その描写は豊かという言葉では生ぬるい、圧倒的ないきものの「気配、ざわつき」が描かれています。この「気配、ざわつき」ですが、老年期に初めて体験するものではありません。私は子供の頃、夕方の帰り道で通らないといけない墓地の横を通り抜ける時、おばけの影に怯えたものでした。家の中でさえ夜中にトイレいくとき廊下の曲がり角に「気配」を感じて怯えていました。おとなになってそんな感覚は全く忘れていました。この変化は電球が明るくなったとか家の気密性が良くなったからとかそういう話ではありません。子供の時代、世界はいまより不安定でざわついて「気配」に満ちていたのです。おとなになると自我が安定し、気配が消えます。そして子供時代の感じ方など覚えてもいません。ミセスタッカーは再び圧倒的な自然の気配の中に入っていきます。このことは非常に示唆的です。ミセスタッカーが入っていったのは実際の自然の中ですが、ホームで暮らす彼女の元同居人たちも自我機能の衰えの結果、周りの日常がざわつき、動き出すような気配の中に暮らしているのではないかと想像できるからです。全く混乱してしまうと老人性精神病ということになってしまうけども、そこまでいかなくても私たちが子供の頃確かに経験し、またしばらく忘れていた世界の見え方に戻っていくものと思われるのです。
 いきいきしだした自然の中に入っていくミセスタッカーは犬を連れいていきます。ここでのミセスタッカーと犬の関係は昨今の愛玩動物としての犬とは違っています。もっと古代からの歴史ある人と犬の関係です。想像しやすいのは桃太郎と犬の関係でしょう。犬は人より遥かに自然に馴染み安く、本能に近く、人とは独立しながら完全に信頼のおけるパートナーです。危険察知に優れているため、騒がしい自然の中でも安心して眠ることができます。動き出すような(子供の頃のような)気配の中で暮らすことになる老年期において安心して過ごすために、今のうちから「犬のような」感覚を研ぎ澄ませておくとよいでしょう。一番イメージしやすいのは実際に犬を飼うことですが、万人が飼うわけにはいかないと思いますのでそこは工夫が必要です。匂いをかぐとか土いじり、タイムとか距離とか数字に注目しない気ままな散歩、運動。など大型犬がしそうなこと真似してみても面白いと思います。おふざけ半分でいいので内的な犬イメージと仲良くなっておくと老年期、とくに認知症の心配が出てきたくらいの時期にどっしりとしていられるものと思います。
 話は変わってここでもう一人の登場人物である小人のニムビンに目を向けます。ニムビンは大自然の一部である精霊、超常の存在ですが、ニムビンの方にも事情があります。文明の影響を受けているのです。かつての自然の中の生活ではなく、開拓小屋の壊れた鶏小屋に住んでいます。ネズミたちのご機嫌をとりながら太ったネズミを間引いて食べています。ネズミたちはうすうすニムビンの魂胆に気づいていて、ニムビンの足元をみたり、あしらったりします。ニムビンは自分を知恵のある存在と思っていますが、振る舞いはイライラした子どものようです。下心をもってネズミに媚びて近づきあしらわれる姿はみじめさが漂います。この小人のニムビンが開拓小屋で好きにうごいていますからミセスタッカーは戸惑います。扉を締めたはずが開いている。鶏に餌をあげたはずが鶏たちが腹をすかせている。心当たりがないことが起こるからです。ミセスタッカーははじめ自分が認知症になったと思ってひどく自信を失います。私は以前の書きもので認知症の体験は物忘れというより狐につままれるとか手品にかかったとかの体験に近いのではないかと考察しました。ミセスタッカーの体験はまさにそうだったろうと思います。後にミセスタッカーは小人のせいだとわかってとても安堵します。このことを認知症診療とからめていくと物盗られ妄想の話を連想します。物盗られ妄想では認知症の物忘れについて当事者は「ぬすまれた」と体験します。盗まれた以上犯人がいるはずで、ニムビンが犯人だということになれば家族は安泰なのですが、不幸にもお嫁さんなどが犯人とされます。いわれのないことを言われるお嫁さんも面白くないですから家族がギスギスしてきます。盗まれた犯人がいるほうがまだ安心できるという認知症の事実を押さえておくと家族の結束は固まります。すべての物忘れ(トラブル)が小人のせいということになれば丸く収まるのですが、人類の頭は不器用に科学的になりすぎたようで精霊の住む余地が残っていないのです。さてミセスタッカーとニムビンの関係ですが、はじめミセスタッカーはニムビンを見ることができません。彼女の飼っている犬のみがニムビンを感じることができ、追い立て騒ぐのでかえって犬との信頼関係が揺らぎます。ですがやがてミセスタッカーもニムビンを見ることができるようになります。またミセスタッカーは足にマメがありびっこを引いて歩くのですがニムビンも同じ足に負傷します。ミセスタッカーとニムビンの関係は不気味に近づき重なっていくように見えるのですが、物語の中では結論は曖昧です。尻切れトンボのような終わり方です。特に私は老年期、認知症体験に重ねて考えているので余計断定ができませんでした。それだけにみなさん、もしよかったら元本を読んでいただいて色々想像力を働かせてみてください。きっと豊かな時間になると思います。今回は「ミセスタッカーと小人ニムビン」という物語をヒントに老年期、認知症期を内側から想像してみようという試みでした。ユング心理学では物語を心理学的視点で味わうということはよくあります。今回も見直してみて意図しないような気づきがいくつかありました。みなさんはどうだったでしょうか。今回は以上です。

13/02/2026

<心理療法の概要>
「今日はどんなお話ですか」というのが私の初診の方に対して第一声です。相手の顔色をみて「今日はどうされました。」に変えることもあります。この聞き方はオープンエンドクエスチョンといって精神科だけでなく医療の面接の基礎とされている聞き方です。対になるものとしてクローズドエンドクエスチョンがあります。これは「頭痛はありますか?」「熱はありますか?」というようにイエスかノーで答えられる質問です。話をオープンエンドクエスチョンに戻しますと、このやり方ですと患者さんが何を求めているのか(主訴)が捉えやすくなります。身体科であれば主訴を元にクローズドエンドクエスチョンで問題を絞り込み、アセスメントにつなげることになります。精神科ではオープンエンドクエスチョンはさらに重要になります。というのもイエスかノーで答えられない、「問題」とその問題についての「考え方」「捉え方」を知る必要があるからです。こころを対象にするとき「出来事」と「どう考えるか」「どう捉えるか」はセットで重要です。なぜなら出来事は誰に対しても共通ですがそれをどう捉えるかにその人、個人が浮き上がります。この「個人」というのがいわゆる「こころ」であって精神科医療や心理療法の対象となります。
 昔、不眠を主訴に通われていた方が卒業するとき、診療を振り返って「先生のところへ来て、寝れる寝れないはあまり変わらなかったけど、眠れなくてもいいやと思えるようになりました。」とおっしゃっていました。この方の主訴は不眠でしたが、幸い精神病性の二次性の不眠ではありませんでした。心因性であったので捉え方の変化を目標したケースです。もちろん心因性であっても睡眠薬で満足するケースであればそれでもいいと思います。
 むかし心理療法の講義で「心理療法は精神(ここではこころの意味)の自由を保証することだ」というようなフレーズを聞いたことがあります。ここでは何を話しても自由なんだと言うことを体験的に理解し、実践してもらう、これが心理療法の根幹になります。私は初診からこの精神の自由を保証する態度でやっておりますが、クライアントが意識的に心理療法のルールに馴染んでくるには時間がかかります。なぜなら何を話しても自由という場所はどこを探してもめったに見つからないはずだからです。むしろ心理療法に馴染んだ方でないなら全くの初めての経験だと思います。心理療法のおこなわれる場というのは以前お話した遊びの空間と非常に近しいので、遊びの経験を延長して想像してもらうのが馴染んでもらう早道かと思います。このあたりをクライアントさんがさっと了解されるのと戸惑い続けるのとで変わってきます。心理療法の導入の難しいところです。ここまでで心理療法はどういうものかまとめますと<精神の自由が保証された場で、心の自由な活動を体験、実践すること。その結果として捉え方や行動のの変化を期待するもの>とまとめることにいたしましょう。ここで治療者の役割に焦点を当てますと主な役割は精神の自由を保証することになります。心の自由な活動というのは場合によっては破壊的になることがあります。外的には反社会的な行動につながることもありますし、内的には精神病状態にエスカレートすることも考えられます。そこまでいかなくともちょうどお鍋が吹きこぼれるように、治療者やクライアントの日常生活に影響力をしめすことは十分考えられます。治療者はちょうどお鍋の番をするように、吹きこぼれないようにとかまたは調理が止まっていないかとか見る役目を担います。これが枠を作るとか枠の維持といわれる治療者側の役割です。基本的な、かつ重要な枠としては「定期的に」「決まった時間」で会うということです。心理療法の視点では予定外受診というのは歓迎できません。もちろん理由によりますが枠を揺さぶる予定外受診に対しては、「定期的に」の重要性を伝えていくか、当初予定していた心理療法を一旦諦めて、別の枠組みを再設定する必要があリます。心理療法を説明するにあたりあれもこれも言いたくなりシンプルには言い含められませんが、①枠組み(あるルール)を作って、その中では②精神の自由を保証し、③心の自由な活動を通して④クライアントの捉え方や行動の変化を期待する方法というふうに理解しておいてもらえると精神科受診の前知識としては十分と思われます。今回は以上です。

06/02/2026

<衆議院選挙>
衆議院選挙で世の中一色になっています。というのも私は普段、YOUTUBEで動画を見ているのですが、そのホームのおすすめに出てくるタイトルが軒並み衆議院選挙の話題に染まっています。すごい熱気を感じますね。私は普段、自分のできないことに手を出すよりは、自分の役割をしっかり果たそうというのを規範にしています。野球で言えば、自分の守備範囲をしっかり守って、何点リードししているとか優勝するとかしないとかは取り合わない。極端に言えばチーム貢献も意識しないそんなスタイルです。これはチーム貢献する気がないのではなくて、自分の仕事をしっかりすることが最高にチームに貢献することだと信じているということです。そんなふうに普段は生活しております。おそらくベネゼエラとかイランとか中国とか普通選挙のない国に暮らしていても先の信念から自分の仕事をしっかりすることに注力し、デモとか政治的な運動をするタイプではないと思います。
 そんな我が家に今回、2枚のハガキが届きました。一つは私の分、もう一つは奥さんの分です。日本は幸い選挙のある国です。さあ私の守備範囲にハガキがきました。どうかえすか。わくわくします。スルーは論外です。エラーと同じです。。。というわけで長くなりましたがハガキが来た方、投票に行きましょう。今回は以上です。

06/02/2026

<告!臨床研究会再開>
月曜日の朝、友人のS先生からメールが届きました。内容は臨床研究会を再開しようとのお誘いでした。臨床研究会というのはもう10年近く前に私とS先生が中心となって、たちあげた事例検討を中心とする勉強会です。その後心理師さん中心のうたのまちの研究会に参加する形になり、うたのまちの研究会が解散になってからはコロナもあって開催されていませんでした。私はS先生の申し出に二つ返事で乗ることにしました。S先生の出してきたコンセプトは2点で①特定の理論や技法を学ぶ場ではありません。事例を通して、治療者自身の「選択」といっしょに眺める会です。②成功例や完成した事例を求めません。むしろ、まだ自分でも扱いきれていない臨床場面を歓迎します。とのことでした私は加えて、①守秘義務を十分理解し守れる方。②事例を出せる方の2点を挙げたいと思います。それとこれは絶対ではないですが、検討内容はどうしても精神療法によっていくとおもうので薬物療法メインの事例だと十分満足できないと可能性が高いです。また私たち2人を含めて合計6人を上限の会にしたいと思います。以上の内容で興味のある方がいましたら当院にお問い合わせください。

02/02/2026

<ヒポクラテスの誓い>
ヒポクラテスの誓いというのをご存知でしょうか。大まかに言えば医師の職業倫理とか医者とはこういうものというのを伝えたものだと思います。私がこれに出会ったのは医学部の最初の授業でした。それ以来、何かと私の医者のスタイルに影響を与えていて、ときにそのせいで苦しんだり、器用に立ち回れなかったりしています。その点で言えば三重大医学部の最初の授業は大成功だったと言えるでしょう。とはいえ20年以上昔のことなので改めて振り返るとあやふやになっている事に気がついたので今回アップデートしておこうと考えました。
<ヒポクラテスの誓い@wiki>
アップデートといっても学生時代の資料などとっくに紛失しています。しかし今は大変いい時代でウィキペディアでお手軽に原文(もちろん日本語訳ですが)にあたることができました。結果は「?」という感じでした。たしかに「ああ、こんな内容だったな」とピンとくるところはあるのですが、琴線に触れるという感じはわずかだったのです。私が教わったヒポクラテスの誓いは現代風にアレンジされたものだったのかもしれません。原文は興味のある方はウィキで調べてもらえばいいと思います。私が自身に再確認したことといえば、「専門性の立場から患者に利益のある治療法を選択し、害が生じるとわかっている手技はおこなわない。」という誓いがあります。また依頼されても人を殺す薬は与えないというものもあります。当然のことかと思うかもしれませんが、昨今安楽死関連の事件があったことを思い起こしてもらえば、医師にとっての正義を考えるうえで重要な先人の教えでであることがわかってもらえると思います。人を殺す薬というところを必要のない薬と読み替えると私の専門である精神科で言えば、睡眠薬の話があります。原発性不眠の場合、殆どの場合睡眠薬は必要なく、生活習慣や心理療法が第一に用いられるべきとなっています。しかし患者さんは納得しません。幸い睡眠薬は常識的な使い方であれば安全ですので、患者さんの要望と自分の正義感との間で妥協点を探す流れになります。しかし過去には危険な飲み方が習慣になっている人に対して毅然と対応し、詳細は言えませんが警察沙汰になったこともあります。こういう対決の局面で内心尻ごむ自分を支えたのは「患者に対して悪いことはけしておこなわない」という誓いの一節でした。
<医神アスクレピオス>
ヒポクラテスの誓いで他に取り上げられているのは師ー弟子のつながりの強調と秘儀についてです。これについて考えてみます。秘儀とは自分たちのグループ以外にはその手技を秘密にすることです。秘匿することによって特別な心理的な効果を期待することができるのでしょう。現代においてはナンセンスに思われますが、ところがどっこい医者の世界ではその雰囲気が残っています。「〇〇先生は自分の指導医だったから頭が上がらない」「彼はわたしの後輩で・・」「私は〇〇先生のあとについてまわっておしえてもらった」など医者同士で話をすると師ー弟子の軸で人間関係ができていることが実感されます。また秘儀についてですが、私の専門分野である精神科に限ったことかもしれませんが、「口伝」のようなものが多々あります。もちろんEBMにのっとった診療をするのですが、「たまに一緒にのみに行くにはいい人だけども、毎日一緒だとつかれるなと言うような人には〇〇(薬名)がよく合う」など「口伝」の形式で伝わることがよくあります。これは秘儀の伝統を残しているものと思います。また中井久夫氏の文章から知ったのですが、氏が神戸大精神科教授のときに「向精神薬を実際に服用してみてその体験を活かす」目的で医局員を集めて集団で服用会を開いたことがあるそうです。レボメプロマジンの時などみんな倒れてしばらく動けなかったそうで、このあたりのことなど冷静に見ると宗教秘儀後みたいな光景だったものと想像できます。
 このあたりの師ー弟子のつながりや秘儀に代表される神秘的な情熱(熱狂?)を理解するにはギリシャ神話の研究者のカールケーレニイという人の書いた「医神アスクレピオス」という本が参考になります。まずアスクレピオスですが、これはヒポクラテスのお師匠さんに当たります。アスクレピオス自身はケンタウロスという半人半馬の存在から医学を教わっています。またアスクレピオス自身も太陽神のアポロンと人間のお姫様の間に生まれた半分神様、半分人間の境遇で神話の中の人物です。ケーレニイによれば古代の医師たちは自らの技、仕事を通してアスクレピオスとのつながり、さらに上流の太陽神アポロンとのつながりを感じ、同時にその神秘の熱量を受け取っていたということようです。
 神とのつながりということですが、これは古代のしかも遠いギリシアに限ったことでしょうか?考えてみると「医」はずいぶん神とのつながりが多いように思われます。手術のうまい人を神の手とかいって時々テレビで放送していたりします。世界規模ならしょうがないかもしれませんが地方都市レベルでも「腰の神」(手術のうまい医師のことですよ)などの噂を耳にします。「奇跡」なんていう言葉も医の世界ではよく出会います。奇跡という言葉の背後に神の活動を感じるならば、私の知る限り「医」ほど神が降臨!?しやすい舞台もないように思います。ですので医師が神秘の熱量に当てられているということは遠い古代ギリシャのことだけでなく、現在においても当てはまるように思われます。大きな使命感の前では自分のこと、「私」個人のことが<あんちょこに見ると>小さく見えてしまいます。自分の経験ですが、私が学生時代、研修医時代と出会った先輩医師たちは医局の熱量が高いほど、個々のプライベートは問題を抱えていました。単純に家族と過ごす時間がないという場合やもっと複雑になっているケースもありました。テレビでやっていた「神の手」も人間の〇〇さんとしては幸せだったのか?大きなお世話と思いますが、想像してしまいます。私の考えですが、使命感という言葉で片付けるには不十分な、神秘の熱量ともいうべきエネルギーがついて回る職業が医者という職業になります。これには魅力もありますが当然危険もあります。
 今回はヒポクラテスの誓いを改めてみてみました。医師の仕事について、自分の実感も交えて考えてみました。自分でも思いもよらない方向に思考が進みましたが、色々納得がいったところがあり有意義でした。
 もっとも最近は神も簡単になったようで、末の息子は音声チャットでゲームしながら「神!神!」と連呼していますから、実際はどうってことないのかもしれません。今回は以上です。

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