堤ヶ岡メンタルクリニック

堤ヶ岡メンタルクリニック 心理療法に力を入れている精神科クリニックです。精神科医・公認心理師の立場からあなたのお悩みに見通しをつけるお手伝いをいたします。ちゃんとやめていける安全な薬物療法を心がけています。

 当院は完全予約制の精神科、心療内科のクリニックです。完全予約制としましたのは患者さんの一人一人と落ち着いて話し合いを持ちたいからです。
 薬物療法の進歩で急性期の精神科疾患は非常に治りやすくなっています。しかし維持期や再発防止のことを考えると薬物療法だけでは心もとないです。そこで何らかの精神療法との併用が必要です。とくにうつ病をについては安定期の認知行動療法が再発防止に効果があることがわかっています。私は精神療法のエッセンスはアドヒアランス(患者さんが治療に参加していること)の維持にあると考えています。それには患者さんと時間と場所を決めて定期的にどっしりとあっていくことがどうしても必要だと考えるようになりました。完全予約制ということでご迷惑をおかけすることもあると思いますが、以上の理由がありますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
 もちろん通院されている方の予約外の診療には対応いたしますが、電話連絡をしていただきたいのとある程度待っていただくことはご容赦ください。

28/08/2026

<カウンセリングについて>カウンセリングについて興味ある方は、割とおられると思います。その中で実際に受けた人とない人では、カウンセリングに対しての理解が割と違うのではないかと感じています。今回はその差を埋めるような目的で話してみたいと考えています。
<カウンセリングは話すだけ?>カウンセリングと聞いてどんなことをイメージするでしょうか。なんでもはなしていいところ?それはそれほど間違いじゃないですが、自由連想法という精神分析の技法から来る流れです。カウンセリングは英語の「counsel」という言葉からきています。言葉自体はアメリカの教育学からの流れです。日本語では相談する。助言すると言う意味です。はなしをしてなにか意味があるんですか。と聞いてくる人があります。実際の臨床でこういうことを言ってくる場面というのは緊張感のあるケースが多いです。率直に答えるかは別ですが、話をするだけでは先行きは暗いでしょうと思います。「相談する」にならないとカウンセリングはうまくいきません。一つは方向性や目的の問題。相談という言葉にはそれ自体の中に問題解決へ目指す矢印が含まれています。問題解決へのモチベーションがないとカウンセリングはうまく行きません。2つ目は、これも相談という言葉の中に答えはほのめかされていますが・・、相談相手、他者が必要だということです。どんなに能力的に優秀な人でも一人では相談は成り立ちません。前述のはなしをしてなにか意味があるんですか。と聞かれた方は相談者と「出会う」ということに対してひどく無頓着か非常に過敏であるかと予想します。平均的、一般的カウンセリング像とはつまり、クライアントが相談相手(他者)とともに問題解決を目指す共同作業のことと言えると思います。1つ目、2つ目ともに普通の感覚であれば、わざわざ言葉にしなくても当たり前のことだと思います。しかし実際にカウンセリングを経験してみると問題解決に「したくない」「すすみたくない」という流れに出会うことはよくあります。この時、流れをしっかり自覚したうえでカウンセリングを中止する。もしくは流れを自覚して先へ進む。どちらでもカウンセリングは成功と言えます。失敗は、すすみたくない流れの存在がうやむやのまま終わっていく、または別の取り繕ったような理由で終わっていくパターンです。繰り返しますが、カウンセリングの過程において問題を解決したくないという流れは割と起こるのです。
<セッションを創造する>2つ目についてもセッション(一回のカウンセリングをこう呼びます。)は相談者と相談相手の共同作業であるということ、このことがうまく浸透していないとカウンセリングは良い経過をたどりません。この時、相談者の抱える課題に相談者とカウンセラーがすっと共同作業に入れるとカウンセリングの経過は明るいですが、相談者とカウンセラーの「出会い」のプロセスで相当時間がかかることがあります。これはどんなケースでも多少あるものです。しかし本来の目的であるはずのカウンセリング課題にエネルギーがむかわず、相談者ーカウンセラーの関係づくりにばかりむかっていくようになるとやはり難しいカウンセリングになります。私は得意ではないパターンですが、精神分析系のカウンセラーだとむしろ、相談者ーカウンセラー関係こそが分析の活きた素材だと捉えるとも思われますのでそれほど苦手意識はないかもしれません。
<能動的な参加が必要>いずれにしてもカウンセリングは未経験の人が想像するよりはずっと能動的な参加が求められます。例えるなら、マッサージ屋にいくのではなくスポーツジムにいく感じです。カウンセラーはしばしばセラピストと呼ばれたりするので、患者さんの中には真に本気ではなくてもなんとなく癒しの神通力を期待しているひとは決して少なくないと思います。始めるまではそれでもいいですが、ある程度続くことになったら能動的な参加がないと成功はしないでしょう。今回はカウンセリングに興味があるけども経験したことがない人向けに、想像していたのとちがうと感じそうなところを書いてみました。参考にしてください。以上です。

16/08/2026

先日、お盆もありましたので、お墓の掃除をしてまいりました。私の実家は田舎で、お墓の掃除と言っても草の刈払いからはじまって、石段を落ち葉から掘り出すなど半日がかりの作業でした。作業が終わってスッキリ達成感がありましたが、家の掃除や草取りの達成感とはまた違う達成感でした。宗教心といいますか、通りがいい言葉でいえばスピリチュアルということでしょうか。過去ー現在ー未来のような時系列のつながりを感じたような体験ができました。このような宗教心が生存、進化の文脈でどう有効なのかは、はっきりしません。ですが個人の豊かな生活を考えるときには必須な要素だと思います。私の診療の経験だと老年期やガンケア、死別の方の相談等の領域では宗教的な要素が重要になります。これらの相談の方々は宗教性、スピリチャリティの話をすることに抵抗がありますので、まずこちらが宗教性に対して開かれている態度でいることが重要です。残念ながら多くの精神科医はこの手の話題を避けようとすると思われます。今回の精神神経学会の発表の内容をみても宗教性、スピリチャリティの話題は上がっていないように思います。一般的には精神科より心理相談室の領分なのかと思います。自分は精神科臨床で最も興味やりがいを感じるのは、クライアントさんのスピリチュアル体験について報告をうけたり、ときに立ち合ったりしたときなのです。実際には夢の話が多いですが、別にそれに限ったわけではなく、もっとシンプルでも(かえってそのほうが)本物の感動があります。ただ「空がとても青くきれいでした。」という報告でもその青さにこの世を越えた奥行きを感じられればそれはスピリチュアルな体験といってもいいのです。クライアントさんが芝桜でいっぱいの土手の道私は先日お線香をあげたときに、その煙があまりにまっすぐ上に昇る様をみて、天(あのよ)とのつながり意識しました。これもスピリチャリティでしょう。日本人は〇〇教とか特定の教義の「宗教」に所属している自覚はないですが、さっき私の例であげたように素朴な宗教心は十分にあると考えます。お盆のイベントも仏教に関連はすると思いますが、本当の起源はより素朴な先祖崇拝があるように思います。素朴な宗教心に開かれて、あの世とのつながりを感じる機会にしてはいかがでしょうか。お盆休みを受けての内容でした。今回は以上です。

24/07/2026

<アクティブイマジネーションと絵画制作>
先日の海の日、すごく久々にAJAJ(日本ユング心理学分析家協会)のセミナーに参加してきました。セミナータイトルは表題のとおりです。アクティブイマジネーションとは聞き慣れない言葉だと思いますが、ユング心理学においての「わたし」以外のココロを知るための技法の一つということになります。。ユングは患者の事を知る、一級の資料として「言語連想法」「夢」「アクティブイマジネーション」の3つを挙げています。患者さんの語ることは「わたし」が強く出るため患者の全体を知るという目的では一級の資料にはなり得ないと考えます。ですのでアクティブイマジネーションはとても重要ということになります。これだけでアクティブイマジネーションについての説明として十分とは思えませんが非常にニッチでかつ紙面を取りそうなので割愛させていただきます。セミナーに話を戻しますと、この過程で大事にする意識(わたし)の態度というのは非常に重要で、いわゆる芸術活動、 クリエイティブな作業をするためには非常に大事なコツになっています。ということ今回、芸術家である蓮沼昌宏さんの指導で絵画制作をおこないながらココロの自律性を殺さない「わたし」の態度(アクティブイマジネーションのコツ)について習得しようという試みです。
<ドローイング>蓮沼さんが今回教えてくださったのはドローイングというやり方です。やり方と言っても単純で「とにかく好きに描く」「いろいろ描いてみる」というやり方です。単純なんですが大事なのは〇〇を描こうと思ってかくかきかたからなるべく離れて、なんか引いた線が〇〇に見えてきたからそっちに寄せていこうとかそういう描き方がドローイングになります。蓮沼さんは「100まい描くのを目標で」とおっしゃいました。とにかく好きに思いつくまま描いて、描いたものを壁に貼っていく。描いたものでこれ好きとかおもしろいとかおもうものや一部であってもこの線、好きとかたまたま引っかかった紙のやぶれかたまで、そういうものを集めていく作業がドローイングです。絵を書くといっても「作品」を作る気持ちはできる限りゼロにしながら、たとえるならぶらぶらと道を歩いて石や草を手に引っ掛けてもちかえってくるなんてことと近い活動です。初めてトイカメラを買ったときみたいになにかにつけてのぞいては撮るみたいな活動です。
<ドローイングから作品へ>今回のセミナーではとにかくドローイングをマスター?というか体験することで精一杯になりました。「とにかく好きに描く」といってもいろいろ無意識に自分の世界を限定するのでたくさん描いて貼っていくと自分では気が付かない無意識の偏りが出ます。蓮沼さんはまわってきて「紙のサイズをいろいろ変えてみてください」とか「ぐにゃ~みたいのが多いから、かっちりしたものをいれてみて」「テーマをテキストで書いてみること」とアドバイスをくれます。壁に貼ってあるドローイング達を見て言ってると思うのですが、アドバイスがその人のドローイングが展開していくのを助けるものになっていて、感銘を受けました。これが正解というアドバイスではなくて、隠し味的だったり触媒的にはたらいていくもので心理療法にもつながるセンスだなと思いました。今回は間に合いませんでしたが、本来の工程だと集まったドローイングを眺め、テーマを見出したり、気に入った形、線、キャラクターを更に描き込んだりしながら構成、構図を考えるなどの工程を経て「作品」作り上げる過程になっていきます。ドローイングの次の工程からはだんだん「わたし」の役割が大きくなっていきます。それまでわざと避けてきた「考え」たりすることが重要になります。このドローイングと「作品」の関係は実は夢の分析や絵画の心理学的な分析のするときのコツと非常ににています。もっと広げると患者さんの理解やワンセッションごとのもちかたにも広がっていくように思われ、非常に印象に残りました。
<実際は?>以上のようなことを実際に体験してきたわけですが、理屈とか意義とかは書いたとおりだと思うのですが、実際のわたしのドローイングは妙なはまり方をしてしまいまして、なんとか作品までいこうしたのですがドローイングに内包するパワーが足りなくて失速というような印象を持ちました。残念。失敗も含めて学ぶことも多かったです。今回は以上です。

16/06/2026

<鶴の恩返しとみるなの禁忌>娘が中学生になり、急に自室にこもるようになりました。それまではリビングで普通に見かけていたのですが、このところご飯を食べるときに現れるくらい。それも食べ終わると自室に上がってしまう。。今までも特に交流があったわけではないのですが、なんとなくリビングのきまったところに娘の居場所があり、そこで彼女はタブレットを見るとか漫画を見るとか受験勉強までもそこでやっていたのですが、今はずっとその場所がからになっています。部屋で何をやっているんだろう。ようすをみてみたい。そんな気持ちがむくむく湧いてきたところでふと、鶴の恩返しの昔話を思い出しました。するとその中の「見るなの禁忌」テーマが非常な存在感をもって意識されてきました。様子を見るのか。ほっておくのか。日常の中に葛藤が生じます。一連の私の体験・事件というのは、親と子の割とよくある物語かもしれません。というわけで今回はどうしたらいいの?「見るなの禁忌」について考えてみたいと思います。
<世界中にある見るなの禁忌>見るなの禁忌の物語は古今東西世界中にあります。ギリシャ神話では「アモールとプシケ」日本神話ではイザナギ、イザナミの黄泉平坂の話。またおなじみの鶴の恩返し。鶴の恩返しは異類婚ともいわれ、様々な動物(ヘビとか蛤)が人になって男性と結婚し、男性は女性との禁を破って正体を覗いてしまい、女性は動物となって自然に返っていくという物語です。見るなの禁忌をはじめ、物語の中にある禁忌は私の知る限りほとんど破られますが、西洋の話の場合それは物語の本筋の始まりに起こることがおおく、日本の物語だと物語の終わりに起こります。見るなの禁忌が破られることによって若干の?傷つきが示唆されます。アモールとプシケではろうそくのロウがたれてアモールがやけどをしたり、ツル女房では女性は自分のはねを抜いて機をおっていますがそういうところです。傷つきのほうに興味を向けていく人もいるでしょうが、むしろ私が強調したいのは禁忌のやぶれの前後で人間関係の変化が生じている点です。
<変身の過程>ツル女房では変身自体は毎晩おこなわれているわけで、珍しくもないものなのですが(ツルにとって)旦那がそれを覗き「見る」ことによって、決定的な人間関係の変化が生じます(変容)。変化を意識することで変容は完成する。そんなことが言えそうに思います。ツルだけの変身では本質的な変化は生まれません。このあたりのことは日常診療においても言えそうです。少なくないケースで患者さんの生活の中に、または生活歴の中にすでに目下の問題のヒントや答えそのものが存在していることがあります。存在しているので再意識、再発見することで停滞した状態が展開し始めます。今回の話にもどすと父娘の関係が今までとは変わっていく、自分も含めて変わっていくのだと意識することが重要です。そのあたりが変化の過程を邪魔しない態度と言えるでしょう。
<月並みな結論に・・>今回、娘の話に関連して、見るな禁忌、ツル女房のお話を取り上げてみました。結論から言いますと父娘の関係が変化していく過程であるということ。娘だけが変わっていくのではなく私も変わっていく過程であるということ(人間関係なので)。変化を意識する、深く意識することが、変化・変容と完成させるポイントであることを確認しました。まとめてみるとよくある「思春期だよ」とか「難しいお年頃」ということなのですが、とにかく実際の体験を通しての理解ということが精神医学では大事です。有名なエディプスコンプレックスといっても人それぞれの物語があるように決して一つの言葉に還元できるものではありません。今回、娘の変化とそれにつながって連想された鶴の恩返しのお話についてあわせて考察してみました。結論は月並みのものでしたが、納得がいった、腑に落ちたという後味があります。とりあげてよかった。今回は以上です。

05/06/2026

<統合する力>
最近印象にのこった患者さんとの会話で印象に残ったものがありました。それも二人の方から同じような話を聞いたのでそれを話題に考えていきたいと思います。ChatGPTについてなのですが、患者さんが自分のこと、周りのことを、箇条書きのような形でAIにいれると「いい感じに」まとめてくれる。それが「これこそ私が言いたかったことだ」と思われて、「すっきり」するのだそうです。この話をきいてハッとしたのですが、この箇条書きのような状態をまとめていく力、一つの作品にする力というのがとても重要で、かつ健康に機能している精神というのを考えたときに最も根幹の力だと思われたわけです。この力をここでは統合する力と呼ぶことにします。箇条書きのような形だと各項目自体が対立する内容であったりします。極端な例をあげれば、①甘いものが食べたい。②太りたくないなどです。両立しない項目は葛藤を生みます。葛藤を持った状態は居心地が悪いので、対立をうまく一緒にしたい、統合したいということになります。統合する方法はいろいろありますがユング心理学者の河合隼雄先生の強調されておられていたのは「物語る」ということです。先程の例①②をつかってみると「今日はよく歩いたから甘いものを食べても太らない」など箇条書きを物語りにかえるとスッキリするのです。私の挙げた例は極端なものでしたが、実際の精神の中ではさまざまな箇条書きの情報が「物語る」をはじめとした統合する力によって統合されていっているのです。そうやって居心地の良い感じ、健康の感じは生まれています。この統合する力がうまく働かない状態というのは精神病の状態というのとかなり同義と私は考えています。一方、物語る力というのは統合する力をベースとしたスキルに近いものです。スキルですのでうまい、ヘタがありますし、トレーニングによって上達するものです。私はこのChatGPTによって物語りのスキルトレーニングの機会が少なくなる、もしくは決定的になくなってしまうことを心配しています。これは丁度電卓をつかって計算することに似ています。私も最近はちょっとした数字の計算でも電卓を叩いたりしますが、小学校のときにたくさんドリルをやってきたわけです。出てくる答えは一緒ですが紙でも計算ができる人が電卓を使うのとそうでない人が使うのではなにか差があるように思うのです。このことについて非常に示唆的に思われた事件に阿部元監督の事件があります。おそらく娘さんは、動揺というか葛藤を抱えてスッキリしたいためChatGPTを利用したのだと思います。ChatGPTの出した答えはまあ正しいと思うのです。ですが葛藤を抱えながらゆっくり醸成された生の娘さんの「物語り」は別の答えになったようにも想像されます。未来のAIとの付き合い方はどうなるのか。自動車が移動手段として馴染んだように(結果として運動不足になった)ChatGPTは人々の統合する力、物語る力の担い手として馴染んでくるのでしょうか。古い時代の精神科医としては危機感を覚えます。今回は以上です。

25/05/2026

<第二回臨床研究会>第二回の臨床研究会が開かれれました。今回はあたらしい先生が参加されました。メンバーとしてはS先生は神経症治療に熱心な方、クリニック医師。私、神経症治療が多いけども内因も含めあまり制限はしていない、クリニック医師。若い先生、精神科病院で働いているけども所属は行政という方。の三名になります。S先生は神経症(私の記事ではたびたび心因という言葉を使っています)との関わり、治療に情熱を燃やしています。心因は患者さんと環境の課題の解決を目指すので本筋的には薬物療法は必要ありません。というわけでS先生は薬を出さない精神科医ということやっております。なかなか信念を持って取り組んでらっしゃると思います。私もS先生も共通しているのは個人の患者さんと治療契約をして診療が始まるという点です。一方、今回来てくれたT先生は公衆衛生とか行政の立場で仕事をされている方です。具体的には精神科医療につながっていない方を保健師さんらと連携して医療につなげるとか家族教育、家族教室や講演会の企画等が挙げられます。精神科医療もいろいろな側面があります。T先生は普段わたしやS先生に馴染みのない領域からケースを持ってきていただき、大変参考になりました。臨床研究会第二回目です。小人数での事例検討会ということですが、今はまだ三人です。S先生は最大六人ぐらいにしたいねと言っていたので、現在参加者募集中です。参加条件は守秘義務とか基本的なところが理解してもらえれば、「自分の事例が出せること」です。興味のある方はクリニックへご連絡ください。今回は以上です。

13/05/2026

<診療報酬改定>6月の診療報酬改定にむけて準備に忙しい毎日です。診療報酬改定には政府の意向が反映されています。全体的には医療DXと賃金のベースアップに注力していくということだと思います。精神科での流れは初診の60分と30分以上の診療を評価してゆく方向のようです。当院では30分以上の診療の割合が全体の13%ぐらいありました。数字を出してみると思った以上に多くて意外でした。どうして数字を出したかと言うと早期診療体制充実加算をとるための施設基準を申請するために必要だったからです。もともと当院は地域における精神科医療の窓口的な役割を目指していています。急性期や内因の精神科の疾患のケースは必要なら精神科病院につなげる。反対に心因性のものについてはじっくり向き合う枠を提供できる診療をおこなうということを目指しています。精神科病院との連携は当然今までもやってきました。今回の診療報酬改定で示されたのは緊密な連携をさせていきたいという方向性だとおもいます。この方向性は当院の目標ともあっているので、ぜひとも乗っかっていこうと思います。
<診療時間の長さを評価する方向について>当院は当初より10分は診療時間を保証しています。加えて継続的な心理療法をのぞまれる方対象に30分の枠で時間を取っています。長いことこのスタイルでやっているので大きく変える気はないのですが、政府の意向としては心理療法を多くやってほしいということでしょうか。当院で30分の枠を提供する場合は、自由画、コラム表、夢の分析が大部分になります。これらの心理療法を継続するには患者さんの明確なモチベーションがないと成り立たちません。現在私の地域ではしっかり心理療法をしたいというニーズに十分な枠が提供できていないので、当院がそれを提供しようと思っているわけで、実際に該当する絶対数は多くはありません。そういうわけですのでそこまで30分以上の診療にニーズはないと思います。一方で初診の60分というのは大いに取り入れていこうと思います。実際としては60分の時間を確保するのは大変なのですが、初診に時間をかけるのは無駄にならないという格言もありますので素直に使わせていただこうと思います。私は現在、30分ぐらいで初診を取っていますが、30分に収めていくためにガッツリ削ったのは「生活歴」の聴取でした。初診の問診で生活歴を聞くというのは精神科の面接の一番の特徴でしょう。またトレーニングとしてもとても重要です。生活歴はどの方にも同じやり方で同じ順番で聞いていく、いわゆるルーティンというやつなのですが、いつも同じことを聞くからこそケースの特徴に気づきやすいという面があります。心因ではクライアントのテーマは繰り返すところがありますから、その視点で見るとクライアントの心理的なテーマが予想できたりします。優れた診断面接では治療面接がはじまっているというような話もあったと思います。基本であることはわかっていたのですが、忙しさを言い訳にスタイルを変えてしまっていました。大いに反省して、6月からは政府の後押しもありますので初心に帰って(初診だけに?)生活歴もしっかり聞き取ろうと思います。今回は6月の診療報酬改定で私の診療がどう変わるのかという話でした。以上です。

01/05/2026

<父親イメージの役割>
子育てや家族についての相談を受けている時、「これは自分にとっても宿題だなぁ」と感じることがよくあります。こちらからアイデアを出すことはもちろんですが、クライアントさんからアイデアをもらうこともあります。とにかくいつも考えているのでたまに子どもに聞いてみたりもします。私「お父さんとお母さんのちがいってなにがちがう?」子「おまたに。。。。。。があるのが、お父さん」私「笑」ただしこれっておふざけにとどまらない本質をついているようにも思います。というわけで今回は父親イメージの役割について、考えてみたいと思います。
 はじめにタイトルを父親イメージの役割として、どうして父親の役割としなかったかについて説明したいと思います。ユング心理学では父親の中には父性がもちろんありますが、母親の中にも父性があると考えます。男の人、ある個人の中に男性イメージと女性イメージがあるそういう風に考えます。ですからある個人の人の行動や性格を考える時、ここは男性的、人とのつながり方は女性的というように心のなかにはいろいろな人物像がある(役割分担をしている)と考えます。そういうわけですのでイメージといったほうが本稿の趣旨に合うわけです。父親の役割といってしまうと、うちは母子家庭だから役割がぬけてしまうと言うような誤解が生じる危険があるわけです。私は間違いなく父親ですが、子どもと関わる時、父親イメージを介して関わると同時に母親イメージを介して関わっているわけです。父母だけでなく、友人や兄貴イメージ、子どもイメージを介して関わっていることもありえると思います。(拙稿「悪ふざけはたのしい」をご覧ください)その全部を使って子どもにあったっているので、それが「私」が子どもと関わるということなのです。本稿はたくさんの要素の中の一つ、父親イメージに対して理解を深めようというわけなのです。
<父親イメージ一般について>はじめに教科書にのっているような知識です。これは男性性ということとだいぶ被りますが、決めたことをやり通すというある種の頑固さや家族、人々を引っ張っていくリーダーシップがあります。また仕事に行く人というイメージがありますから、社会適応にも関連します。父親が仕事の向かう姿はそれだけで子どもたちにこれから参加していくことになる社会との付き合い方を伝えているわけです。父親との遊びにも特徴があります。父親との遊びはそうでないものと比べて激しいものになりやすいという特徴があります。相撲やレスリング、チャンバラこれらは戦いの興奮があり、子どもたちは(時に親も)熱狂します。この時やはり超えてはならない一線というのがあり、それが超えられたときに怪我や父親からの(性格には父親イメージからの)予想しない怒りに当てられることが起こります。この超えてはならない一線を超えずに遊びの状態を維持する能力というのが社会スキルとして非常に重要になります。このセンスを父親との激しい遊びを通して、子どもは学んでいるのです。
<大学生の父親イメージ>もう十年以上前のことになりますが、あるケースの理解のために大学生(日本人)の父親イメージについて調べてみたことがありました。ある調査において、大学生の父親イメージでは「めだたないけど、影から見守ってくれている」というものがメジャーになっていました。私は「ほぼ霊。ご先祖様じゃん!」とツッコミを入れたくなったことを覚えています。先に述べた教科書的な父親イメージと比べるとリーダーシップなどはずいぶん方向性が違って見えます。ここで架空ですが、ケースを想像してみます。奥さんあたりに「あなたは何もしてくれてない」なんていわれる。そんな言葉を真に受けると世のお父さんは途端に焦りだし、家事や育児に積極的に参加するようになるかもしれません。それもよいでしょう。否定はしません。しかし私なぞは「霊になにかさせようというのがいかん。全力で守護霊をやっとるのだ」と答えるのもありと思います。守護霊に抵抗あれば大黒柱という丁度良いイメージもあります。ふらふら揺れるのはいい柱ではありません。これらも父親イメージと言えるでしょう。
<英雄の父親は二人いる>ユング心理学では神話の研究をやります。その中で英雄神話では自我の成長のヒントが有るとしてよく解釈、研究がされます。自我というと聞き慣れないですが、わかりやすくいうと子どもの心の成長と考えてもらって構いません。この英雄の出自に関して、父親が二人いるという設定が多いのです。このペアの父親像ですが片方は神様とか超自然的な存在です。もう片方はふつうの人間の男性です。このことは何を意味しているかというお話です。私の家では、母親が子どもに何かあった時に「パパに報告するよ!」ということがあります。すると子どもはそれだけはやめてという風に両手を挙げて降参となります。奥さんは「うちの子たちはパパを恐れているから・・」というようなことをタレコミを入れてきます。ですが私には恐れられる心当たりがないのです。取り立てて大きな声を上げることもないし、気難しい性分でもありません。子どもたちは私の背後の父親イメージにおそれを感じているのです。この現象は子どもたちがなにかルールを破ったときにみられることが多いです。ルールを破った罪悪感、または正義感の萌芽(の自覚)、精神分析の言葉を借りれば、「超自我」に出会う体験です。イメージで言えば閻魔大王でしょうか。裁く者。こういう超自然的な父親イメージをただの一般人に過ぎない私が背負う場面というのが父親をやっているとやってくるのです。ここで「裁く者」父親イメージが実際の父親に一体化するようなことがあると理屈はあるにしても現実的でない罰が子どもたちに加えれる事が起こります。不幸な結果になると思います。「超自我」自体は社会からの要請を代表しているので、超自我と折り合いをつけることは社会に出ていくポジティブな力になります。とはいっても超自我や超自然的な父親イメージの要求する正義感は融通が効かないものなので、「それは正しいけども、俺自身もまもれないよな」という生きた一般の人間の視点が重要になります。子供へアイスは夕ご飯が食べられなくなるからだめだと、ルールを語り、例外は許さないといった父親が風呂上がりに隠れてアイスたべてるというような二重性が子育てにおいてはむしろ重要と考えています。私が子どもたちに「パパが言うことは正しいけども、パパが正しいんだと勘違いしてはいけないよ」とよく言うのはこういうわけなのです。超自然的な父親とそれから比べれば矮小な父親、英雄が成長するには二組の父親が必要なのです。今回はいろいろな父親イメージについて取り上げてみました。何かの参考になれば幸いです。以上になります。

28/04/2026

<労働とボランティアと仕事>
 患者さんと話しているとそれぞれの人が自分のテーマに沿って心理的な仕事をしていることに気が付きます。これを社会の中の仕事と区別して、オプスと仮に名付けます。患者さんに説明するときは「課題」と言ったりもします。患者さんとの対話はカルテに残しています。そういう記録を俯瞰してみるとオプスが浮かび上がってきます。オプスはもちろん患者さん個人の課題なのですが一般にも広く言えることが多く、実際私の人生においても役立ちます。精神科医の役得です。今回はその中の一つのお話です。
 ある人は仕事人生と個人の人生のバランスをどう見出すのかというのがオプスとなっているようでした。話し合いの中で会社のベースになっている仕事観とその人の仕事観にズレが有るという話になりました。西洋、もしくはキリスト教圏の社会では労働というのは自分の時間を捧げて(苦役)それの対価にお金を得るという明確なモデルがあります。明確ですがそれだけでは、人間にとっての仕事は語り尽くせません。なのでもう一つの様式としてボランティアが普及しています。キリスト教社会では労働とボランティアをわけてそれぞれ行うというのが文化ですが、日本ではもともと「仕事」といったときに西洋式で言えば労働とボランティアが混ざって入っているものを指すように思うのです。それでていて会社はもともとの日本式を離れ、西洋式を取り入れていきますので「労働の場」の色彩が濃くなっていきます。実際の構成員の日本人の意識は従来の「仕事」のままの方が依然として多い。。。このような仕組みで同じ「仕事」という言葉をつかいながら会社は労働の意味、日本人の会社員は労働とボランティアの混ざったものをイメージとしてもっているため、双方の食い違いが問題の本質のように思われます。例を挙げれば、(雇われ側からの視点ですが、)本来ボランティアというのは人間的な交互作用を期待するものですから、会社からはそういう照り返しを感じない。ボランティアすればするだけ吸い込まれるというような徒労感を感じるかもしれません。(サービス残業という言葉は外国にもあるのでしょうか?)こういったケースではクライアントの会社への期待が現実的なのかと言う事の見直しや今回の方のように仕事人生と個人の人生のバランスを見直していくようなセッションになっていくかと思います。個人としてはこういったセッションになりますが、日本人全体としても社畜(苦役)という言葉が出てきたりしていますので日本人の仕事イメージも仕事=労働というように西洋風に変化が生じていると思います。今丁度過渡期なのだと思います。昔、何かの論評で日本人はボランティアがすくない(けしからん)みたいな論がありましたが、それはそもそも仕事にボランティアが含まれていたわけであって、それが昨今変化していますから、日本人のボランティア率というのも西欧並には上がってくるのではないでしょうか。外来でもボランティア活動している人が割とおりますし、世界陸上でのボランティアの質が非常に評判がよかったという話も聞いています。精神科の仕事はもちろん個人を相手にしていますが、社会の動き、傾向というのも非常に影響をされるので大事になります。今日は西洋社会の「仕事」と日本人の「仕事」のイメージがズレていること、会社から個人の順番に西欧風に変わってきていること、その変化の過渡期をどう生きるかというオプスに割とで診療の中で出会うことをお伝えしました。本日は以上です。

04/04/2026

<反省には2つの過程がある>
あるベテランセラピストはよく「心理療法はリフレクションが起こらないとうんぬん。。」といっています。実際リフレクションは最重要といっていいと思いますが、じゃあリフレクションって何?ということになるとユング心理学では「鏡イメージ」などイメージをつかって説明、理解に近づいていこうという傾向が多いです。ですが今回はあえて言葉からの説明、私の考えを説明したいと思います。レフレクションはrelectionで単純に訳すと「反省」となりますが日本語で反省というと良い、悪いとか罪悪感、いわゆる「謝罪」に引っ張られてしまうケースが多いように感じます。わたしはよく患者さんに良い悪いを聞いているわけではありませんよとよくいっていますが、反省という言葉を巡って私の目指す方向(心理療法の方向)と患者さんの考える方向(謝罪方向)にズレが生じているのです。もちろん人間関係においては謝罪は大事なのですが、罪悪感と強いインパクトで行動を変えていこうというのは心理療法において、(教育においても)あまり有効とは言えないのです。心理療法にあたってまたはセルフ心理療法において反省を行うときにはまず第一として「良い、悪い」「罪悪感」は横においておくというのが大前提になると思います。そのうえでまず①出来事、②その出来事をどうとらえたか、③自分の行動、気持ちの3つわけて考えます。どうして3つなのかということですが、実際に心理療法を受けている人は気がつくと思います。セラピストにあることを話したいとおもうとき、結果的にこの3つを話すことになるからです。もしくは①と③の2つを話す人もおられます。その場合でも意識のスポットライトの当たらない②が必ず存在しています。複雑な状況や心情に感じられてもこの3つ組が最小単位なのです。以上をふまえて、今回のタイトル「2つの反省がある」にもどります。まず1つ目は③につながる②を振り返るです。③というのは行動や気持ちです。気持ちの方の例を挙げれば「怒り」や「悲しさ」といったものです。実際に身体的な体験のあるものです。①出来事を②どういうふうにとらえたから③結果が出たのかということを振り返ります。これが1つ目の反省です。この段階では①はさほど考えに入れません。それよりはむしろ③の(感情)体験にピッタリの「とらえかた」を言葉にする、拾い上げる、釣り上げるといった事に集中してもらうことにします。③につながる②をしっかりとまな板の上においたら、(紙に書き落とすことを勧めます)①出来事に②の内容がマッチしているかどうかを考えます。これが2つ目の反省です。この2つ目の反省ができるようになったらセラピストとしてはこれ以上指導するようなことはなく、クライアントの作業を見守る段階になったといえるとおもいます。したがってセルフ心理療法としてはほぼ到達点ではないでしょうか。今回は心理療法での反省、リフレクションについて取り上げました。以上です。  追記:念のためグーグルでrelectionを調べたところ反省ではなく、内省となっていました。そこだけ修正しておきます。

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