30/08/2026
近藤章久の神経症的性格と不安 孤立型 8
① 成長の可能性
自分を不安から守る為にある人々が他人から遠ざかり他人との関係に巻き込まれない態度を取り、自分だけの私的な狭い自由の世界の中に安心を求める気持ちが理解されたと思います。
そしてその為に自分の自発的な感情・自然な欲望や要求を諦め、遂には他から孤立し孤独の世界の中で自分の本当の気持ちや自分自身が一体なんであるかも解らなくなり、色々な症状を発する過程も理解する事が出来たと思います。
この「諦め型」の人は、支配型の人が攻撃的で野心的で精力的であったり、依存型の人が愛情や好意を求めて懇願的であったりして、病的ではあるにせよ、そこに何かを人に対し求めている意味で一種の正気を感じる事が出来るのに対して、どこか冷たく一見死んでいるような感じがします。しかし本当にこの型の人には、生々とした成長の元である「自分」と云うものが失われているのでしょうか。もしそうであれば、この型の人は治療という事は不可能という事にもなる訳です。
その答えははっきりと否です。言い換えれば、本人は気付いていないにしろ深いところで本当の自分になる可能性が決して失われていないという事です。
治療上の経験から云いますと、治療が進むに従ってこの型の人にはそれまで断念していた他人に愛されたり愛したりしたい気持ちや他人に優越したり世の中に認められたい欲望などが現れて来ます。それらを体験し味わい認めて行く内に人によって、遂に人間らしい本当の自分の可能性を発見し、そうした自分を認める事によって溌剌と自分を成長させる歓びと生き甲斐を見付けるようになるものです。つまり隠れていた自分を発見する訳で、考えてみればこれは当然な事かも知れません。
元々この型の人は、初めは人の子として愛情を求め自分を認められる事を願っていた人です。しかし求める愛情は得られず与えられたとしても紐付きであったりして束縛され、また自分の才能を発揮して認められようとしても嫉妬や中傷などで傷付けられ、反抗しても周囲の力で押さえ付けられたのです。そうした状況の下でせめて例え小さくとも純粋な自分を失うまいとして取った生き方なのです。
他人からの影響や圧力から出来るだけ離れて、例え狭い限られた範囲であっても懸命にその中で自分を確保しようとする態度がある訳です。確かに他の神経症的態度と同じく自分の安全の防衛の為にのみエネルギーを使い未発達の幼稚な自分である事は事実です。しかしここはそれだけに純粋なまだ歪められていない自分があります。
それは、未発達であるから発達を求め幼稚であるから成長する可能性を持っている自分です。媚びもせず諂いもせずまた烈しい野心や猛々しい敵意に身を任せず独力で静かに自分の分を守っている点で、これまで述べた三つの型の中で一番清潔な生き方をしているかも知れません。(つづく)